無天記録 /ADHD/ASD/発達障害/

ADHD(+ASD?)男性のライフハック記事

「〜したい!」と思えることが必ずしも幸せではない

 

前々回の記事に続き、仏教的な幸せの話になります。

 

希望がない幸せ

前々回の記事では、希望がないことが仏教的な幸せだと書きました。

希望がないというのは、執着がないという意味です。

「お金をもっと欲しい」「もっと美しくなりたい」「もっと人に好かれたい」

そういう希望がない状態が幸せだということ。

「〜したい!」という希望を持たない状態が幸せ。

 

今回のタイトルの内容に入ります。

 

意欲にあふれている人は幸せ?

「〜したい!」と思ってる人って、元気で幸せな人に映りますよね。

よく、「夢や目標を持って頑張れ!」と言われますよね。

 

でも、仏教的にはそれは幸せから離れた状態なのです。

それは前々回の記事に書いたように、

「もっと欲しい!」という希望が次から次へと湧いてくるから。

 

こういう希望は人の理性を惑わせてしまうのです。

仏教では、欲望は無限で際限がない、とされています。

 

例えば「もっとお金が欲しい!」と思うとしますね。

そうすると、いろいろと考えが浮かんできます。

「もっと働かないと。もっと働くにはあれをやめないと。」

「うまく働かないと。うまく働くためにはあれをしないと。」

他にも節約のことなど、いろんなことが浮かんできますね。

 

そんな事を考えていると、エネルギーと時間を使ってしまいます。

あまり意識しないことですが、人は考えるときにエネルギーと時間を使っているのです。

そして、考えにとらわれると現実をそのままに捉えにくくなります。

執着している考えがあってそちらに気を取られているから、当然ですね。

 

意欲が苦しみを生む

執着を続けると、現実をそのまま受け入れる余裕がなくなります。

そうなると、疲れてしまったり、お酒や物事に依存しやすくなってしまいます。

苦しみが増えていきます。

 

そして、欲望にはキリがない。

苦しみもキリがなくなってしまうのです。

 

日本ではたくさんの人が苦しさから毎日自分の命を絶っています。

死なないまでにしても、日々つらい思いをしている人はたくさんいます。

 

死にたいと願う赤ちゃんはいません。おそらく。

日々の生活の積み重ねの中で苦しみも積み重ねてしまい、

あげくは死をも願うようになってしまうのです。

 

「〜したい!」を見直す

僕たちは「目標を持て」「それに向かって頑張れ」と教えられてきました。

ですが、それが必ずしも自分を幸せにするものとは限らないのです。

 

一度でも二度でも、自分の頭をすっきりさせましょう。

自分が今何に執着しているか、なぜ苦しいのか、考えてみましょう。

執着を捨てることで、行きやすくなると思います。

自分の心の自由を、自分で取り戻しましょう。